春は出会いと別れの季節である。
また出会える別れもあれば、もう二度と 出会えない別れもある。
実は先日、叔父の葬儀に参列した。
生まれてから数える程しか会ったことがないので
あまり叔父のことはよく知らなかった。
商社マンだったから(既に退職)お通夜にはたくさんの方が
ご挨拶に来られていたそうだ。
賑やかな場所とお酒をこよなく愛した人だったそうだ。
だから 友達も同僚も、たくさんの方が、集まっていた。
ひつぎの中の叔父はそれはそれは穏やかな顔で
大勢の人に囲まれて、最後には微笑んでいるようにさえ見えた。
お通夜も葬儀も なんだかちっとも湿っぽくなくて明るかった。
叔父は豪放磊落に、最後まで明るく、
とても素敵な人生を生きたのだと思った。
葬儀の最後にはだびに付す、という過程がある。
私は長いこと、死ぬと言うのはひつぎに入ることだと思い込んでいた。
実際、そう語ってきた場面が何度もある。
リアルに親族の葬儀に参列して
あぁ、私は勘違いしていた、と思った。
あれは肉体を離れて、
葬儀が終わるまでの間の、仮の寝床なのだった。
臨終を告げられて、葬儀を経て火葬場に行くまでの、
ほんの数日、短い時間、一時的に 滞在する場所だったのだ。
まぁ、体を持った状態では最後の場所ということになるけれども。
友人や知人の葬儀に参列して「お別れをしてきた」というのは
本来ならば、まだ途中の段階なのだった。
親族の葬儀は久しぶりだから、忘れていたというか、気付かなかったけど。
確かに最後に、火葬場のドアが閉まるまでを「見送る」というのだった。
小一時間ほどして、叔父は真っ白な骨になっていた。
そうか、これが現世での「肉体」の最後の姿なのだった。
火葬場の方が丁寧に骨を骨壷に入れている姿を見ながら、
私は叔父の骨の音を耳に刻んでいた。
カサカサ、カサカサ、という乾いた音だった。
あぁ、これが、人間の人生の最後の音なんだなあ、と思った。
うぶごえも、この骨の音も、皆、大して変わらない音だろう。
皆、一緒の音なんだ。この音と共に土に帰る。
最後には皆、こうやって現世で最後にこの音を響かせて、
骨壷に収まるんだな、と思った。
そう、これが「私だった」肉体が、一番最後に入る場所だと気が付いた。
ゴールは、この小さな壷だった(・・;)
そうそう、出来るだけ 「あ・軽い」骨の音を立てて(笑)
私も57年後に入る(らしい)ぞ、あの壷の中へ・・・。
え。
そう、私98歳まで生きるらしいから・・・(^o^)/
きっと叔父もそれまで あちらで明るく笑って待っていてくれるだろう・・・。
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