人のモチベーションというのは、それぞれである。
自分のために、というものと。
大好きな誰かのために、というものと。
そして、組織、多くの人々、国家のために、というものと。
その原動力となるのは、「愛」という事だと思う。
で、このところ、感じていることがある。
「誰かのために」という思いで何かをする、ということって
あるところまではすごいパワーになる。
つきつめてつきつめて
ある相手への思いを抱き続けた結果
そのエナジーはおそらく何かを形作るきかっけになるだろう。
ところが
少し前のことだがこういう光景を何度か見かけたのだ。
「愛」が「怒り」に変化してしまったり
あるいはがっくりとその「相手」への思いが尽きる場面。
何か気球がはじけたように熱さが途切れてしまうのだ。
・・・「誰かのため」という志は、素晴らしい。
けれどもその行為自体に、
ほんとうにその人自身が満足し
充足していたとするなら、その思いは見事に完成する。
しかし
心のどこかにその相手に対しての
「認められたい」という気持ちや
乾いた思いが存在しながら
その行為を続けていくと
「○○のため」と思った
その相手や対象に
強烈な見返りを求めてしまうことになりがちになることがあるようだ。
「これだけやってあげたのに」
「こんなに思ってあげたのに」
・・・「愛」はいつのまにか
「怒り」や「絶望」に変わってしまうのだ。
その思いは当人にとっては間違いなく
「無条件の愛」なのだ。
その感覚は人それぞれなので
そのことの善い悪い、正しい間違っているとは
一概には言えないのだと思うが
また違う観点から見ると
果たして
・・・「無条件の愛」って何なのだろうか???と
疑問が発生してしまう。
元を正せば
「誰かのために」と思った行為とは
結局は
「自分がそうしたかったから」という
シンプルな理由にちがいない。
真実の「無条件の愛」ならば
自分自身の素直な思いが原動力なら
どれだけ何かをしてあげたとしても
結局は見返りも代償も
本来ならば欲しいとは思わないのではないだろうか?と。
相手に望まない、見返りを期待しない。
ほんとうの意味での「与える」というのは
とどのつまりそういうことなのではないだろうか、と。
自分の中で完結することなので、
それ以上は何も求めることもないのである。
・・・ということを最近ふと思ったのである。
しかしながらいつまでたっても人間とは
未完成の存在である。
「誰かのため」がやがて
「自分のため」に変容していくなら
それは立派な変化のプロセスだと思う。
そしてその「自分のため」がひいては
世の中のため多くの人々のために結果としてなっているのなら
こんなに素晴らしいことはない。
「目的の変更」はいつでも起こりうる。
でも、その通過点を超えなければ
「目的地」の変更は起こりえないのだ。
「誰かのため」が「自分のため」に昇華する瞬間、
人は大きく変容する。
そして「自分のため」が知らず知らずのうちに
「多くの人のため」になっている。
「愛」から「絶望」へ、
やがて本物の「真実の愛」に昇華する。
自分をゆるしその対象をゆるし
自らの魂への成長にフォーカスは定まるのではないだろうか。 |